光州ビエンナーレ雑感

ソウルから国内便で45分、クアンジュ(光州広域市)は人口130万人の韓国第三の都市だそうだ。多くの日本人は光州事件でその名を記憶にとどめていると思うが、現地の方にお伺いすると独自の文化圏を持つ誇り高い土地柄でどこへいっても光州なまり(光州弁)を通すということらしい。つまり、韓国の大阪といったとこだろうか。市内中心部よりほど近い仲外公園(巨大市民公園)を会場に光州ビエンナーレ(KWANGJU-BIENNALE)が開催されている。第三回を迎え、韓国全土および海外より約60万人を動員した本催事を最終週直前に訪れ駆け足で観てまわったわけだが、小生のたわいもないその感想に少しだけおつきあい頂こう。

 

各文化圏の作家、作品を一堂に見渡す経験はなかなかできるものではないが、多くの韓国ファミリーが現代美術のモザイクのようなブースを渡り歩くさまはこの国の文化に向かう欲求を強く感じさせる。アートという制度のなかで、それぞれの歴史や流れる血の違いを際だたせているなか特に日本の作家は、概念的なおおきなテーマとともに、日本的美意識のなか、アートそのものに対する問いかけという共通項を感じさせた。また、アジア圏の作家は社会的問題をテーマとしたメッセージ性の強い作品がおおく、国際展においてはナショナリズムで勝負せざるおえない現実を抱えながらも同時に過去の伝統的美意識から逃れようとしているかのようにも思えた。そのほか、北米のコーナーでは本テーマの「人+間」に忠実?にセルフポートレートを中心として、チャック・クロスなど大物を筆頭にそれぞれのアート観を表現している。なかでもマイケル・デイビスは圧倒的な筆力で(レンブラントを彷彿させる)で異彩を放っている。インスタレーション全盛(このようなアートフェスタでは)の時代にペインティングの可能性を感じさせた。

 

その他、ヨーロッパ・アフリカ、中・南米、韓国・オセアニアで構成されたメインエキジビション。さらに特別展として、「人間の森、絵画の森」「人間と性」「芸術と人権」とそれぞれのテーマごとに展示と現場制作などがおこなわれていた。テーマ展というのも難しいモノだと思う。それはそのキュレーターのシナリオ(メッセージ)に無理にでも沿わせるかたちで作品を観ることになるので、どーも作品自体が裏にまわってしまうと感じるのは私だけだろうか。マイケルデイビスDragon 「芸術と人権」会場で日本人作家(丸木位里・俊)の南京大虐殺を描いた絵が展示されキャプションに40万人の中国人が殺されたと書いてあるわけだが、史実として確定されず議論のつづいている事柄を、このような国際展で作家やキュレーターの解釈で展示するのは冷や汗ものである。このキュレーターは日本人の方であるが広島をテーマとしたフロッタージュの作品がしゃれてこざっぱりしているのと比較するとこういうことに関して日本人が客観的になるのはなかなか難しいのだろう。

 

ともかく、韓国の国威を賭けたビエンナーレも三回目にして(1回目は欧米のまねっことして酷評された)アジアの国際展としてのかたちをとれたのではないだろうか。作品の管理やガイドの対応など批判するむきもあるようだがわたしは鷹揚で結構ではないかと思う。アートは神棚に奉りあげるようなものではないだろうし、費用やつくりを欧米風にしたところで意味がある訳はない。 いかに開催地、開催国の人々の利益(もちろん精神的)となるかという視点をはずさずに行うかということが肝要であるという結論に至った韓国三日間の旅行であった。