住まいとアートの心理学


「人はパンのみにて生きるにあらず」
 

有名な聖書(旧約聖書申命記第8章3節)の中の言葉ですが、広くは「人が生きて行くうえで口から得られる栄養だけではなく眼や耳などの知覚に訴える精神的な豊かさが重要である」ひいては「芸術に親しむことはよいことだ」というような意味で私たちも使ったりします。しかし多くの方が「芸術を楽しむような趣味には憧れるけれど、現実には時間もなくて・・・」という方が大多数ではないでしょうか。ところが、心理学の三谷博士の研究により興味深い実験の結果が報告されています。それは、「人間は優れた美術品やデザインから受ける視覚刺激によって脳の発育が促され、精神的にも肉体的にも健康が保たれる」というもので、今まで漠然としていたものを実験心理学の分野で明らかにされた貴重な報告といえるでしょう。


「三角形の部屋のネズミ」
三角ネズミ    

この実験は「脳に対する刺激の効果について」の研究のために行われたもので、ラット(ネズミ)を何種類かの部屋で飼育し観察するというものです。その種類とは第一に壁に『三角形の図形』が描かれた部屋、第二に円やフラクタル(無秩序で曲線だけの図形)の描かれた部屋、第三は何も描かれていない無地の部屋です。  第一(三角形)の部屋のネズミは最も健康で脳が重く体がスリムになり、行動もテキパキとして積極的で知的機能が上昇したのに対し、第二(円・フラクタル)の部屋と第三(無地)の部屋のネズミは概ね似ており、脳が軽く、肥満し、粗野で臆病で集中力に欠け、そのうえその半分が実験途中で死亡するという結果でした。つまり、視覚から受ける刺激の有無や質によって脳の生育に差が生じその生命の維持に大きな影響があるということが考えられる訳です。


「知覚学習による心理的機能と生理的機能の促進」を研究テーマとする三谷博士によれば、人は「豊かな幼少期の経験の効果」つまり「豊富な環境経験」により


1. 脳が重くなる。(視覚と関係した脳の後部皮質が重くなる、つまり目に対する知覚学習により脳が活性化する)
2. 成体時に体重が減少しスリムになる。
3. 学習力等の知能が高くなる。
4. 落ち着きがあり、積極的で行動力のある性格になる。
5. 感受性が高く、弱い者いじめなどをしないデリケートで豊かな感性をもつ。
  そんな人間に育つと結論づけられています。


悲劇「クレーシュの子どもたち」
 

過去にレバノンの首都ベイルートでこのような出来事がありました。カトリック教会が当地で捨てられた赤ん坊を引き取りクレーシュ(仏語;保育園)と呼ばれる保育院で育てていたのですが なんと生後2年間以上をそこで過ごした子供の知能指数が平均52の「智恵遅れ」になってしまったという何とも悲しい出来事です。これは、赤ん坊をクリブと呼ばれる周りを白い布で囲んだ小さなベットで育てたことが原因とみられ、さらに院内の壁や庭にも何もない状態であったといわれています。食事や排泄の世話は充分に行われたのですが、知的学習の対象となる絵画などは一切なく、隣の赤ん坊もみえない、そして母親とのふれあいもない、赤ん坊にとっては目に映るもの(視覚刺激)がほとんど無い状態で母の愛情もなく育てられたため脳が充分に成長しなかったということなのです。

baby

これはウェイン・デニス(Wayne Dennis:発達心理学 アメリカ)の18年に渡る調査によって報告されたものですが、その著書「子供の知的発達と環境〜クレーシュの子どもたち〜」(1973年:三谷恵一訳1991年)によれば、クレーシュの出身者の多くは精神障害や人格障害を抱え社会に適応できず再びクレーシュにもどり子どもたちの世話係となるのですが、子どもたちに対して無関心・無感動であったといいさらに悪循環が続いたのです。つまり脳への影響の臨界期が2才までであり、その間の知覚学習が決定的な要素であるとともに「愛されたものしか、愛することができない」という言葉を立証するものであったわけです。

 

臨界期(critical period)といわれる心理学的に非常に重要な時期は人生に三度あるといわれ、第一の臨界期は出生から満2才になるまでの二か年間 第二は性に目覚めた13才から23才までの青年期、第三は40才位の中年期とされています。中でも二才までの初期経験(early exprience)は極めて重要な影響を及ぼすことが確認されています。またそれ以外の期間もそれなりに影響があるわけです。つまりどの年代の人間にとっても毎日をすごす住まいの中で何を視界に捉えるか、すなわち視覚を通してどんな刺激を得るか、そしてその刺激の善し悪しはどうなのか、これらのことが精神(脳)や肉体の成長及び健康に対して大きな影響があるということがご理解頂けると思います。


「よいものは飽きがこない」の本当の意味
   

ここまでは視覚刺激の影響について考えてきましたが、もう一つ別の視点「飽きる」という観点からアート(芸術)について心理学的にアプローチしてみましょう。なぜ人は“飽きる”のでしょうか。これは脳の神経の疲労やなれが原因のようです。人間は同じ刺激を受け続けると、その刺激を担当する脳神経が疲れてしまい刺激を余り感じなくなるそうです。たとえば海の見える家に住む知人のお宅に伺って「よい景色ですね。」といっても「なれてしまってあんまり感動はないですよ。」という返事が返ってきたりします。つまり飽きてしまうわけです。言い換えれば、あまりにも単純な三角形だけではいかに良い刺激であっても徐々に見飽きてしまうかも知れません。かといって、逆に画面いっぱいに曲線が複雑に絡み合って、色彩も無秩序に配色された絵を想像してみてください。baby(1960年代に流行ったサイケデリックのイメージ)じっと見ているだけで神経がイライラして飽きるまえにいやになるはずです。つまり人は「直線と曲線」「単純と細密」「色彩と質感」の構成やバランスの秩序が魅力的で何度みても「新鮮で奥が深い」「変化があって魅力的」つまり「飽きのこないもの」を本能的に欲求するのではないのでしょうか。そしてそれを我々は「すばらしい」と感じ「美しい」と表現し「芸術」と呼ぶのです。

 

人は幸せを求めてやみません。住宅もその現れとしてその時代時代によりよいものが要求され実現されてきました。中でも我々の先人は「数寄屋造り」「書院造り」「茶室」「床の間」「庭」といった日本の建築文化を生みだし、そこで季節の変化を見つめながら掛け軸や屏風、花入れやお花などを時季折々に選び楽しんできました。これは「くらしの智恵」として本能的に脳神経への持続的なよりよい刺激を実現してきたともいえます。 本文のテーマである「住まいとアート」に関する考察を通じての結論は「家づくり」の重要な要素として「心理学的な観点が不可欠」であるということです。現代の住宅も物理的な環境はますます充実してきたわけですが、これからは、心理学的・生理学的にも進んだ住宅環境の実現が求められる時代がやってきたといえるでしょう。